リューシカ・リューシカ 第1巻を読んだ

前回灰羽連盟を見たついでに安倍吉俊氏のリューシカ・リューシカ 第1巻を読んだ。

ひとことで言えば、あずまきよひこ氏のよつばと!に似てる。ちょっと変わった小さな女の子の日常を描いている点で言えばそっくりだ。しかし違う所はよつばと!が第三者的な視点で客観的に描かれているのに対し、リューシカ・リューシカはリューシカ自身の空想世界が現実と混ざった形で描かれている。

リューシカは本名を栢橋龍鹿(かやはしきみか)といい、両親と姉と兄とリューシカの5人家族で暮らしている。客観的に観ればよつばと!のよつばに比べてもさらに輪をかけて平凡な暮らしをしているリューシカだが、その平凡な世界を幼さ故の空想力で独特の受け取り方をする。そしてリューシカにとっては現実と空想に明確な区別は無い。

各話の冒頭でリューシカは必ず「リューシカ・リューシカ」という言葉を言うみたいだが、自分の名前の感じの音読みであるリューシカを二回繰り返す事で、おまじないか魔法のような感じで唱えているのだと思われる。

個人的にはリューシカが「サンタを知らない」という設定が良かったと思う。特に下記のやりとりには笑った。

兄「(この時期)よく見かけるだろ、赤くて、ヒゲがあって…」
リューシカ「ばかだなアニー、それはダルマだ。」

自分自身でさまざまな空想を産み出すリューシカは、人から教えてもらうファンタジーには興味が無いのかも知れない。

灰羽連盟を観た

こういう作品を観た後って世界観とかについて考察してしまうのは野暮な事だろうか。

しばらく観ていくと死後の世界の話なのではないかと予想がついてくる。灰羽達の羽が白くもなく黒くもないのも天使でも悪魔でも人間でも無い証明だと思われる。灰羽達の名前の由来である生まれてくる前に見ている夢は、死ぬ直前の記憶でラッカは落下死でレキは轢死。特にラッカとレキの死は自殺を思わせるもので、彼女達の羽だけが黒い罪付きとなったのもそれと関連があると思われる。他の年長組メンバーも自殺では無いと思うが同じような暗示がなされているが、年少組は少し違う。これは年少者が死というものに明確なイメージを持っていないために、死の直前の記憶よりも生前の記憶が強く残ったためでは無いかと思う。

さて物語の途中からクウがグリの街から壁を越えて巣立っていくが、「いつかまた会える」というセリフが何度かでてくる事から、その後の世界がある事は間違いないと思われる。しかし天国へ行ったのか輪廻して新しく生まれ変わったのかは解らない。

ただし問題は「何のために」灰羽たちはグリの街で生活をしなければならないのかと言う事だと思う。おそらく作品としては生前の罪を償ったり思い残した事を遂げたりと、生前と「その後」をつなぐ何かするためだという一応の説明はつくのだろうが、どちらにせよそれ自体が何故なのか説明する事は誰にもできないだろう。そういう疑問を抱かずにこの灰羽連盟のような世界観に納得するには、それだけ人生や死に対してある種の固定観念のようなものが無ければならないと思う。この作品が日本よりも海外でうけたのは、キリスト教的な宗教感が深層心理にある人たちの心に響いたからだろう。「罪があればたとえ死後でも償わなければならない」のはまさにそんな感じだ。

まあそんな事をこれ以上考えてもしょうがないのでこの辺でやめておこう。正直なところ清浄すぎるこの作品の世界観は自分の心にはあまり刺さらなかった。

超時空要塞マクロスを観た

ずいぶんと昔の作品になるが、超時空要塞マクロスを観た。

リアルタイムで観るのはちょっと無理だと思うが、再放送なんかで観ていてもおかしくなかったこの作品をようやく観た。これまでの予備知識は「でっかい宇宙戦艦がロボットに変形する」「ミンメイとかいうアイドルがいる」くらいで、あとなぜか主題歌の マークーロス♪ というメロディだけは知っていた。

実際に見てみると予想以上に面白かった。子供の頃に観ていたら理解できなかったであろう、「文化」によって戦うという発想はすごく良い着目点だと思う。実際の歴史でも武器による戦争の次にやってくるのは文化による戦争だからだ。ローマやイスラムは占領地に文化と宗教を移植したし、アーリア人やモンゴル人は占領地の文化を吸収しながら拡大していった。グローバル化しつつある現代の地球では想像しにくいだろうが、異文化間の戦争には文化的闘争の側面がある。そこを「強力な軍隊を持つがまったく文化を持たぬ宇宙人」という切り口で単純化し、解りやすく描いたこの作品は間違いなく名作だと思う。

また恋愛における三角関係を比較的リアルに描いたところも昨今のアニメには無い部分だと思う。昔は結構恋愛が成就しない展開も普通にあったけど、最近ではあまり聞かないように思う。このあたりにリアルさを求めるかどうかは人それぞれだと思うけど、こういう作品もたまにはあっていいような気がする。

僕と彼女の×××を読んだ

森永あい の漫画である僕と彼女の××× を7巻まで読んだ。

話としては結構ありがちな人格交換モノなんだけど、入れ替わる男女がそれぞれ “男っぽい女” “女っぽい男” って所が面白い。

特に男の生活を満喫している菜々子と、なんとか元に戻ろうとするあきらの対比が面白い。作者が女性なので、菜々子の方は女性が思い描くところのもしも男になったらどうするか的視点で女性の願望が描かれており、女になってしまったあきらの方は女性にとっての理想の女の子像が投影されていると思う。しかもかなり早い段階で菜々子の方は元女友達と恋人関係になり、他の女性と初体験を済ませたような描写もある。女になったあきらの方は菜々子に恋心を抱きつつも元親友の千本木に恋心のようなものを抱きつつある。

この辺のギャップがこの漫画の面白いところだが、女性ならではの視点というか女性が思い描く妄想なのだろう。さすがに男の妄想よりも可愛らしい。今後の展開が楽しみだ。

映画 ロリータを観た

ナボコフによる原作を読んだ後で、1997年発表のエイドリアン・ライン監督による映画「ロリータ」を観た。

まず最初に言及せねばならないのはロリータ役のドミニク・スウェインだろう。彼女の演技は悪くなかったし、原作のロリータの持つ「下品で生意気な」雰囲気を上手くだしていたと思う。しかしいかんせん原作のロリータの12歳という設定とドミニクの当時の実年齢の15歳との間の差はいかんともしがたかった。実際に12歳の少女にこの映画にあるような性的なシーンを演じさせるわけにはいかないだろうが、そこら辺は直接的でない表現を用いてもいいからロリータ役の少女の年齢にこそこだわって欲しかったと思う。この作品はポルノ的な描写を売りにしているわけではないのだ。ハンバート氏いわく「ニンフェット」の蟲惑的な魅力を描く事の方が大事だろう。確かに一般的な世の男性にとっては15歳というだけで十分衝撃的だとは思うが、原作を読んだ後では思い描くロリータとは違う印象を受けざるを得ない。

それに対してハンバート役のジェレミー・アイアンズはハマリ役だと思う。物語が進むにしたがって次第にハンバートの精神が病んでいく過程の演技は良かった。時間的な制約からくる演出に多少の不満はあったが、そこら辺は仕方がないだろう。

最も良かった点は映像という形になる事によって、作品が描く当時のアメリカの風景が自分の頭のイメージと結びついた事だ。もともとナボコフの文章は訳文で読んでもいささか難解というか想像力を総動員しないと情景を思い描きにくい部分があったが、原作の文章を思い出しながら映像を見ると脳内のイメージとぴたりとはまった。おそらくこの後でもう一度原作を読み返すと、よりナボコフが描いたロリータの世界が鮮明に私の頭の中で再現されるはずだ。ただしその時はドミニク・スウェインの演じるロリータのイメージは頭から排除せねばならない。

ナボコフ ロリータを読んだ

ロリータ・コンプレックス、あるいはロリコンの語源となったウラジーミル・ナボコフの小説、ロリータを読んだ。

読んでいる途中から、そして読み終わった現在も、私はこの作品がなぜ “ロリータ・コンプレックス” という言葉を産み出したのか心底納得すると共に、その言葉が現在持つある意味軽いイメージをすっかり改める事となった。

この作品の主人公である文学者ハンバート・ハンバートは、世の人がロリコンという言葉から受けるイメージからかけ離れて知的な紳士であり(ネットスラングのロリコン紳士ではない)、そして深刻なまでに心を病んでいる。ロリータとの出会いから、彼女を遠くから見つめているだけの間はまだ単なる文学者らしく気弱なロマンチストともいえる風であったのが、彼女の肉体をひとたび手に入れてからは途端に自らの暴力的なエゴイズムを発揮して、同時に精神を病んでいく。

ロリータに恋焦がれていた時にはまだ詩的な表現で禁忌の恋に身悶える彼に同情もできたが、彼女を手にいれた後の自分の欲望のままに支配し独占しようとするハンバートはまさに暴君で、読んでいて嫌悪感を感じない人はあまりいないだろう。しかしハンバートが自虐をこめて表現するところの「ペット」でも「子供奴隷」でもないロリータは、当たり前ながら自由を要求してハンバートと対立する。ハンバートはその要求を時にはなだめ、時にはすかしている内に嫉妬の炎で脳髄を焦がし、どんどん現実世界から乖離していく。物語が終盤にさしかかるとあくまで紳士的な態度を保とうとするハンバートの文体にも関わらず、もはや何が現実で何が虚構であるのか区別がつかなくなる。実際に逃亡したロリータが遠くの町で結婚して妊娠までしているという手紙が届いてから起きた三日間の記録は、ハンバートの妄想が生み出した虚構ではないかという議論があるという。

現在ではさまざまなメディアで安易に口にされるロリータ・コンプレックスという言葉は、本来この作品のハンバートのような人物に捧げられるべき名称だったのだ。この作品を読み終えた後で私がハンバートに対して抱いた感想は、共感でも嫌悪でもなく、哀れみである。

谷崎潤一郎 痴人の愛を読んだ

随分と昔の小説だが、谷崎潤一郎の痴人の愛を読んだ。

この作品は20代後半のサラリーマンがカフェで働く15歳の女給を引き取って自分の好みの女に仕立て上げようとして、最初の思惑とはまったく違った悪女に育ってしまい、最終的にはその魅力に屈服してしまうというものである。

男ならば誰しも一度は少女を一から自分好みに仕立てあげてみたいと思うものだと思うが、普通の親にさえ子育てが難しいように女性経験の少ない男に自分好みの女を育てるなど不可能だと思う。親が子育てに失敗するのは子供可愛さからつい甘やかしてしまうからだが、この男が失敗するのは自らの肉欲からである。少女は成長するにしたがって魅力を増していき、自分の魅力に次第に自信を持つようになる。その自信が徐々に過信につながり暴走を始めるのだが、その頃には男の愛情はもはや崇拝に変わっているのである。

男の失敗は何より少女を磨き上げる事には熱心だったのにも関わらず、彼女の成長に併せて自分を磨き上げる事をしなかった事にある。そもそも男が少女に投影する影は自らのコンプレックスの裏返しであり、彼女に対する評価もいちいちその型にはまっている。慣れぬ社交場で自分がコンプレックスを感じる時には彼女も周りに比べてみすぼらしく見え、家で2人きりになって劣等感から解放されると彼女が美しく見えるようになる。もし男が少女の成長とともに自らのコンプレックスを克服していく強さがあったなら、少女自身も無理な背伸びをせずにすんだだろう。

本来ならば少女は当初男が望んでいたようなレディーになれたはずなのだ。しかし成長していく少女に比べて全く成長しない男に併せて、少女は悪女へと変貌していく。そして最後には男は外見だけは当初の望みどおり美しく変貌したこの悪女を女神のように崇拝して屈服する。なんと言うお似合いのカップル、かつて数々の男と浮気しながらも涙ながらに男に対する愛情を訴えてた少女のけなげな愛は打ち砕かれて、男は自分だけの独りよがりの愛を手にする。読む人によってはこの男に同情したり、悪女となった少女に対して怒りを覚える人もいるだろうが、男と少女とどちらが幸福を手にしたかといえば、私は間違いなく男の方だと思う。逃れられぬ罠に迷い込んだのは少女の方で、この先ずっと男のためにわがままを言い続けなければならないのだ。この世には色々な形の愛があってもいいと思うが、甲斐性なしの男に捕まった女は不幸だと思う。

アリス・イン・ワンダーランドを観た

ティム・バートン監督のアリス・イン・ワンダーランドをブルーレイで観た。

さすがティム・バートンというべきか、ディズニーのスタッフも協力しただろうがこの手のファンタジー世界を描かせたら今のところ右にでるものはいないのではないだろうか。基本的にファンタジー世界を描くのは実写よりアニメの方が表現力が勝っていると思っている私も、ティムバートン監督の映像美には納得させられざるを得ない。

ただこの映画の主演は知名度からジョニー・デップとなっているが、今作では彼の演技は特に活きていないような気がする。ティム・バートンとジョニー・デップのコンビなら売れるだろうという感じで配役が決まった感じがして、マッドハッターがジョニー・デップである必要性が感じられないのが残念な所だ。彼の個性的な演技は、もうちょっと別の形で見たいと思う。

さらに残念なところは、主役ともいうべきアリスが成長して19歳になっている所だ。この作品的にはあえてそうしたのだと思うが、きっと原作者のルイス・キャロルは成長したアリスなど認めないだろう。ちなみにルイス・キャロルことチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンは性的嗜好については議論の余地があるが、ともかく「幼い少女がとても好き」な人物で、ヌードを含む多数の少女の写真を撮影して写真家としても後世に影響力を及ぼした人物である。そして “不思議の国のアリス” はそんなドジソンが仲良くしていたリデル一家の三姉妹の次女、アリス・プレザンス・リデル(10歳)をモデルにして彼女達に即興で語って聞かせた話がもとになっている。

アリスは幻想世界の少女でなければならないのだ。しかし今作ではアリスが19歳である事によって、幻想の世界は打ち壊されて現実の世界が幻想に勝る結末を迎える。精神的にも大人になったアリスは、現実に向き合い現実世界での新しい冒険に出る所でストーリーは終わっている。なんてありがちな結末!なんてどうでもいいハッピーエンド! さすがディズニー、原作の世界観をぶち壊す事にかけては並ぶものはいない!!

まあ残念ながらハリウッドの限界が見えた作品だとも思う。せっかく素晴らしい技術力で幻想の世界をスクリーンに再現するというのに、幻想のなんたるかを理解せず大人の現実世界をわざわざ持ち込む意味が解らない。行動的な女性を主役にした物語を描きたかったら他の作品でやればいいのだ。どうせ終わりはどれも同じような感じになるのだから。

カウボーイビバップを観た

久しぶりにカウボーイビバップを観た。

もう何度観たか解らないけど、何度観ても面白い。自分は探偵物語の世代じゃないけど、この手の少し柔らかめのハードボイルドは大好きだ。昔のルパンとかもいいよね。作中に流れる音楽もまたいい、ちょっとありがちすぎるけどそれがかえって解りやすい。

登場キャラクター達もいい味だしてる。ちょっとハードボイルドっぽいんだけど、どこか抜けていて憎めない。それぞれに重い過去を持っていて、それぞれにシリアスパートがある。ただスパイクのシリアス話が多すぎかなとは思ったな、この手の話はたまにシリアスを絡めるからいいのであって、2話構成のシリアスを何度もやられると食あたりを起こす。

もう結構昔の作品だから続編ってわけにはいかないけど、またこういう作品を作ってくれないものかなあ。

松本人志 遺書を読んだ

1994年の発表というから今から約15年、ダウンタウンが人気の絶頂だった頃の作品だと思う。

松本がお笑いの一時代を築いた天才の一人である事は間違いでは無いと思うが、やはりこの頃と比べると今の松本はピークを過ぎた感じがしてならない。もちろん他のどうでもいい芸人に比べればマシだが、松本にはベテラン芸人としての円熟みたいなものをして欲しくないような気がする。ぶっちゃけ今の松本は芸人というより、ベテランタレントと言った方がしっくりくる。別に漫才をやれとはいわないが、もはや若手ともいえない後輩芸人に囲まれて笑いの空気を作ってもらってる感じがする。この本で言う所の「笑わせる芸人」ではなく、「笑いの空気を作ってもらってる芸人」だ。もちろんそういう人間関係も含めての松本人志というならそれでも良いが、たぶんかつての松本が自認していた芸人の形ってそういうものじゃあないと思う。

この本の中で松本が褒めている志村けんについてもそうだが、ピークを過ぎて円熟期に入っているお笑い芸人は、ある意味において非情に貴重な存在だが同時に絶頂期の残りカスみたいな存在でもある。これはスポーツ選手でも同様で、ピークを過ぎて監督や解説者として活躍する人もいるけど、それはすでに現役ではないのと同じだ。松本も志村も現役でお笑いに携わっていはいるが、「笑いの天才」としては既に現役ではない。これは別に二人に対する侮辱ではなく、どんな天才でもピークを過ぎれば後は下に落ちるだけだと思う。映画なんか撮ったりしてるのも何かの迷いというか試行錯誤なんだろうか。結局は他人の人生なので松本の好きにすれば良いのだが、個人的には絶頂期の松本に匹敵する新人が早く現れて欲しいと思う。天才の代わりは残りカスの本人ではなく、別の天才にしか勤まらない。