谷崎潤一郎 痴人の愛を読んだ

随分と昔の小説だが、谷崎潤一郎の痴人の愛を読んだ。

この作品は20代後半のサラリーマンがカフェで働く15歳の女給を引き取って自分の好みの女に仕立て上げようとして、最初の思惑とはまったく違った悪女に育ってしまい、最終的にはその魅力に屈服してしまうというものである。

男ならば誰しも一度は少女を一から自分好みに仕立てあげてみたいと思うものだと思うが、普通の親にさえ子育てが難しいように女性経験の少ない男に自分好みの女を育てるなど不可能だと思う。親が子育てに失敗するのは子供可愛さからつい甘やかしてしまうからだが、この男が失敗するのは自らの肉欲からである。少女は成長するにしたがって魅力を増していき、自分の魅力に次第に自信を持つようになる。その自信が徐々に過信につながり暴走を始めるのだが、その頃には男の愛情はもはや崇拝に変わっているのである。

男の失敗は何より少女を磨き上げる事には熱心だったのにも関わらず、彼女の成長に併せて自分を磨き上げる事をしなかった事にある。そもそも男が少女に投影する影は自らのコンプレックスの裏返しであり、彼女に対する評価もいちいちその型にはまっている。慣れぬ社交場で自分がコンプレックスを感じる時には彼女も周りに比べてみすぼらしく見え、家で2人きりになって劣等感から解放されると彼女が美しく見えるようになる。もし男が少女の成長とともに自らのコンプレックスを克服していく強さがあったなら、少女自身も無理な背伸びをせずにすんだだろう。

本来ならば少女は当初男が望んでいたようなレディーになれたはずなのだ。しかし成長していく少女に比べて全く成長しない男に併せて、少女は悪女へと変貌していく。そして最後には男は外見だけは当初の望みどおり美しく変貌したこの悪女を女神のように崇拝して屈服する。なんと言うお似合いのカップル、かつて数々の男と浮気しながらも涙ながらに男に対する愛情を訴えてた少女のけなげな愛は打ち砕かれて、男は自分だけの独りよがりの愛を手にする。読む人によってはこの男に同情したり、悪女となった少女に対して怒りを覚える人もいるだろうが、男と少女とどちらが幸福を手にしたかといえば、私は間違いなく男の方だと思う。逃れられぬ罠に迷い込んだのは少女の方で、この先ずっと男のためにわがままを言い続けなければならないのだ。この世には色々な形の愛があってもいいと思うが、甲斐性なしの男に捕まった女は不幸だと思う。