惡の華 1~5巻を読んだ感想

押見修造による漫画作品、惡の華の1巻から5巻までを読んだ。

単行本の表紙にデカデカと「クソムシが」の文字(笑)。大方の予想どおり気弱な主人公が、風変わりでサドッ気のある女の子に弱みを握られて変態的な事をさせられる、思春期にとりとめて良い思い出のない非モテ男感涙のちょいエロ作品、というと身も蓋もないだろうか。最近こういう作品が増えたような気がする。

作者の言葉として「変態とはなんだ」みたいなちょいとばかり高尚な問いかけがあるが、個人的な感想としては主人公の高男も、高男を振り回す佐和も別に変態ではない。やってる事は表面上確かに変態じみているが、根っこにあるのは盗んだバイクで走りだすヤンキーとなんら変わらない。クラスの女子全員の下着を盗んだりするのも性的興奮を得るためではなく、人とは違う何か、それでいてみんなの注目を集めたくてやっているだけで、そんな事を「向こう側」とか言っちゃってはっきり言って痛々しい。自分を変態だと決め付けることで、自己否定から入り、今度は自分の特異性を認めない周囲を否定する事によって、屈折した形で自己肯定をしているだけにしか見えない。

だがその痛々しさこそがこの作品の特筆すべき点で、こういう思春期特有の痛々しさをここまで見事に描いた作品も稀だと思う。高男と佐和がやるような事は、(下着を盗むとかそういう事ではなく)思春期の人間だったら誰しも考える事だが、一緒にやる友達を見つけられる人間はまずいない。それこそヤンキーが集団で暴走行為をする程度がせきの山で、高男や佐和のような人間がこういう形で道を踏み外すというのは現実世界ではあまりないだろう。面白いのはここまで無茶な事をしながら、高男はいまだに「バレたら破滅」なんて的外れな事を考えている点だ。佐和も「この道の先は全部死んでる」などと言う。つまり二人とも日常を疎んでいながら、完全にそれを破壊する覚悟はできていないという事だ。下着ドロくらいで死刑になるわけでもなし、この後に及んで自分の体面を気にしている証拠だ。

なんだか作品批判のような文になってしまっているが、別に作品を批判したいわけじゃあない。むしろこの作品のような状況に憧れてしまっている自分に我慢がならないのだ。高男と佐和は作中では中学生だから痛々しいという程度で済むが、いい大人の自分がそういうのに憧れるなど悶絶するほど気恥ずかしい。でもまあ、きっと私のような人間は少なくないと思うので、若かりし頃の自分を思い出して悶絶しても構わないという人は読んでみるときっとハマることだろう。